「ライバルは父」・・・だった
長谷川氏からたびたび聞く言葉がある。「ライバルは父」という言葉だ。
長谷川氏曰く、「父は経営者ではなく、教育者のような人」だったという。 「臨機応変に方針は変えた方がいい」というのが父・清氏の考え方だったが、長谷川氏は「社長たるもの従業員に対して、どのような会社にしていきたいかその意思をしっかりと伝えなければいけない」と思っていた。だからこそ自身が社長になった際には、「管清工業を300年続く会社にしたい」という強いメッセージを伝えた。
長谷川氏が社長、父・清氏が会長の時代、役員たちが社長派か会長派で分かれている時期もあった。家ではつい仕事の話で喧嘩になり、母親に諫められたこともしばしば。そんな中、ある時家に帰ると母親から「お父さんからあなたがすごく頑張っていると聞いたよ」と言われ、知らず知らずのうちに自分が父から認められているのだと気が付いた。その後、父から直接「社長らしくなったな」という言葉ももらった。
社長を引き継ぐ時にも具体的に経営のイロハを教えてもらったわけではない。しかし、長谷川一族の中で物事の大根底にあるのは、お坊さんだった祖父からの「自分だけいいと思うな。会社を大きくしたかったら、市場を大きくしなさい。10%のシェアを持っていたとして、100の10%は10だけど、1000の10%は100になる」という言葉である。
戦後、米軍からの配給品を皆に分け与えるような祖父だった。そういった教えが祖父から父へ、父から長谷川氏へと受け継がれた。
長谷川氏は今も「ライバルは父」「お父さんは大嫌い」と言う。しかし、あらためて嫌いなのか問うと、答えはもちろんNO。自分のだめなところを含めて、一番の理解者は父だった。
晩年、父・清氏が入院している時、お見舞いから帰ろうとするたびに握手を求められた。その時に父がポロっと「お前の手が一番いいな。悔しいけど・・・」と言った。それを聞いた時に、父との別れを覚悟した。それから2週間後に父・清氏は息を引き取った。
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創業者で長谷川氏の祖父でもある正氏。「父親は単身赴任でいないことも多く、おじいちゃんっ子だった。おじいちゃんはいろいろなことを教えてくれたし、悪いことをするとよく怒られていた。おじいちゃんと一緒に寝るくらい、とにかくおじいちゃんが好きだった」と話す。
実は祖父・正氏は突然の不幸な事件に巻き込まれ、長谷川氏が12歳の時に亡くなっている。昭和39年8月10日、自宅敷地内にあった事務所にお金を無心しに入ってきた泥棒ともみ合いになって、刺されたのである。あまりにも不幸な出来事だった。
最後に祖父と一緒にいたのが長谷川氏だった。祖父は懐中電灯の電池を探すために、長谷川氏と一緒に事務所に行った。電池を見つけた長谷川氏が先に家に帰った後、事務所の明かりを見つけた男が事務所に押し入ったのである。通報は長谷川氏がした。その時は父親が単身赴任中で、家にいたのは母親と当時14歳の姉と7歳の弟と12歳の長谷川氏。幼い子どもにはあまりに怖い思い出となり、弟はそれから毎晩、恐怖で震えていたという。犯人が数日後に自首したのは唯一の救いだった。
創業時からの先輩である篠原廣明氏㊧と長谷川家3代に仕えた鈴木敦雄氏(管清工業株式会社60年史より)
2022年に60周年を迎えた管清工業。社史の中に掲載されているとある写真の背景に使われている階段は祖父が亡くなった場所なのだという。社史製作の過程で、長谷川氏はとにかくそこで写真を撮ることにこだわった。階段を壊す前にその場所を写真に残したかったからだ。長谷川氏は言う。「俺からすると、あの写真の後ろにじいちゃんがいるんだよ」と。
いきなり訪れた祖父との別れで、長谷川氏の人生観は大きく変わった。「人が死ぬということは、巡り合わせ。つまりこの巡り合わせがない限りは死なない。その時がいつ来るかはわからない。けれども、その時が来るまでは人は簡単には死なない」と。
そんな長谷川氏が今、祖父と父に伝えたいことは、「俺、三代目としてちゃんとやったよ!」の一言だという。
(後篇に続く)