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管清工業株式会社

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ー道を拓く、300年企業を目指してー

管路管理の先導者・長谷川健司 史

【前篇】

誕生ー家業への想いー

目立ちたがりのお祭り男

 昭和27年、時の内閣総理大臣は吉田茂。4月28日にはサンフランシスコ平和条約が発効され、日本が主権国家として独立を回復した、歴史上非常に重要な年でもある。この年の8月8日、長谷川健司氏は東京都世田谷区にて産声を上げた。

 現在では従業員数600人を超える管路管理業界のリーディングカンパニーである管清工業を25年以上にわたってけん引している長谷川氏。少年時代は「組織に馴染まない、天邪鬼のわんぱく小僧。目立ちたがり屋のお祭り男」。勝手にどこかに行ってしまうので、両親からもよく落ち着きがないと言われたという。

 勉強が嫌いでテストは合格点ギリギリ。好きな科目は体育で、運動が大得意。「テストで60点以上取ったら遊んでいい」と言われたら、65点くらいを取って外へと遊びに出ていく。それもまるで100点を取ったような顔をして・・・。しかし、父である清氏はアメリカ育ちということもあったのか、勉強を含め生活面で何かを強いるタイプではなく、自由に過ごしてきた少年時代だった。

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  • バケットマシン車と長谷川正初代代表取締役
  • 本社敷地の車両基地
  • 設立当時の事務所風景

 長谷川氏が生まれた昭和27年に祖父の長谷川正氏が日米産業(現カンツール)を立ち上げていたことで、幼少期から自宅敷地内の倉庫には下水道の管路管理に使われる機械が所狭しと置かれていた。

 当時は何に使うものなのかわからず、ある時、祖父にその用途を問うと、「下水道管の中を掃除する機械だよ」と教えてくれた。その時に祖父の仕事を何となく理解した。

 当時、父・清氏は明治乳業に勤めている〝牛乳屋さん〟だったので、長谷川氏が下水道や管路管理の仕事を意識したのは祖父がきっかけだったという。


渡米ー海の向こうで学んだことー

何事も主張してこそ

 長谷川氏の経歴を語る上で欠かせないのが、米国との関わりである。祖父も父も米国にいた経験があり、姉も長谷川氏より2年先に渡米し、現地の学校に通っていたので、米国に行くことは至極自然な流れだったのだという。

 そもそも大学卒業後、そのまま親の会社に入るのは嫌だった。しかし、日本の会社にもあまり興味が持てず、渡米することを決めた。渡米に向けて、大学卒業後の半年間は四ツ谷にある語学学校で英語を勉強した。そして昭和50年9月、ついに米国へ出発した。しかし本人曰く、当時はほとんど英語ができないままであったという。

 渡米後は、姉の家に転がり込みながら、ロサンゼルス市がやっている語学学校(アダルトスクール)に入学し、1年半ほどそこに通った。その後、プライベートスクールに移り、そこでも1年半ほど英語を学ぶ傍ら、ダウンタウンにあるリトル・トーキョーのカメラ屋でアルバイトも経験した。

 午前中に学校がある場合は午後にアルバイト、午後に学校がある場合は午前中にアルバイトをする生活だった。アルバイト先では、大きな出会いもあった。同僚だった日本語の話せない日系3世と仲良くなり、長谷川氏が日本語を教え、反対に彼から英語を教えてもらうことで、英語力も向上したという。

 昭和53年の暮れに一時帰国し、カンツールで主に貿易の仕事を担当した。その後、再び渡米。54年4月にヒューストンにあるShur-Flo社(工事会社)の生産実習生として就職した。管清工業/カンツールからの出向という形だった。ロサンゼルスに置いてあった荷物は車で5日間かけてテキサスまで運んだという。

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  • 米国・ヒューストンでの管路管理作業
  • 米国・ヒューストンでの管路管理作業
  • 米国・ヒューストンでの路上作業打ち合わせ

 Shur-Flo社はカンツールが下水道管用のカメラを輸入していたFlo-Max社のオーナーの従兄弟がやっている会社で、いわゆるカンツールと管清工業のような関係。「Shur-Flo時代、『よく働いてくれてありがとう』とクリスマスプレゼントで電子レンジを買ってもらったことがあった。当時電子レンジはとても高価で、それがすごく嬉しかった」と振り返る。

 米国に行って学んだことは、主義・主張を言わないと負けてしまうということ。日本時代から自分の意見を言わないタイプではなかったが、米国に行くまでは特に意識していないことだった。

 米国での生活に慣れたころ、父・清氏から日本に帰って来いと言われた。しかし、その1年ほど前に米国で下水道管を調査する会社(Cleanview)を興していた長谷川氏。もちろん帰国する気はなかった。

 というのも、当時のジミー・カーター政権下では、公共事業の20数パーセントをアジア、アフリカ、メキシコ人等の会社に発注しなければならないという少数民族を救済する法律ができたタイミング。Shur-Flo社が所在するヒューストン市も例外ではなく、そうした状況を踏まえ、Shur-Flo社側から会社を興さないかと提案された。そうすることで、Shur-Flo社がヒューストン市から受ける仕事の20数パーセントで長谷川氏が興す会社とJVを組むことができるのである。その頃にはすでにグリーンカードを取得していたので、登記もできた。安定的な収益も見込め、これで飯が食えると思った矢先、父から帰国を促されたのである。

 そして案の定、絶対帰らないと大喧嘩になった。すると、父から「最初の渡米時に使ったお金を返せ。お前の経歴を作るのに協力した人がいることを忘れるな」と言われた。その時に、帰国して5年間恩返しすると決めた。5年経ったら米国に戻るつもりで、会社も登記を続けて休眠しておいた。

 しかし、約束の5年が経つ前に管清工業の役員に就任。今思えば父の戦略だったと思う。米国ではマイノリティの自分が日本では将来の社長としていろいろなことを経験できた。当然仕事がおもしろくなって、米国に戻ることはなかった。


帰国ー3代目への道ー

「お飾り」と思われてもいい

 昭和58年に米国から本帰国。最初はカンツールで貿易業務に携わった。輸入した新しい機械を管清工業の現場で使うことで徐々に機械の善し悪しや使い方について学んでいった。その間、係長から始まり、工事課長、技術部長、本部長、大阪支店長、副社長と3代目への道を着々と歩んでいった。

 父・清氏に仕えていた人からは、難題をどんどん押し付けられ、品定めされているように感じた。父は気付いていないのか、気にしていないのか無関与。父に話しても意味はないだろうと思い、家でも愚痴を言うことはなかった。そんな長谷川氏がいろいろなことを教えてもらったのが、父・清氏より長く管清工業に勤める鈴木敦夫氏だ。鈴木氏はとにかく優しくて、社内で特殊な立場である長谷川氏に生き方もゴルフも全て教えてくれたのだという。

 Shur-Flo社で勤務していた時、日本に戻ったら3代目の社長になるのだろうと思ったからこそ、いろいろなことを知りたいと思った。特に日本の先輩たちが知らないことを知っていれば、社内外の先輩たちと対等に話ができると。父・清氏から「お前に会社を継がせようと思っている」と明言されたことはない。しかし、時々で「こいつに譲る」という意思表示を感じた。だからこそ、それに応えたいと思ったという。

 ある時、東京本社より大阪支店の売り上げが上回ったことがあった。そこで当時の社長である父・清氏の命で東京本社の立て直しを行った。しかし、その後すぐに大阪支店長を任され、自らが上げた数字を大阪で越えなければならなくなったこともあった。

 大阪支店で売上を上げるためにしたことは、同業者から情報を得ること。当時、社内では「社長の息子だから」と情報が上がってこないことも多かった。だからこそあえて食事会などを通して、同業者と積極的に交流を深めた。そこで「最近、この地域で管清さん仕事を取れていないよ」「この地域は最近こんな感じだよ」など〝生の情報〟を教えてもらい、その情報を基に社内で立ち回った。当時を振り返り、長谷川氏は「『お飾り』と思われていることはわかっていたが、辛いという気持ちはなかった。辛いのは女性に振られた時くらい」と笑顔を見せる。


祖父と父ー今伝えたいことー

「ライバルは父」・・・だった

 長谷川氏からたびたび聞く言葉がある。「ライバルは父」という言葉だ。

 長谷川氏曰く、「父は経営者ではなく、教育者のような人」だったという。 「臨機応変に方針は変えた方がいい」というのが父・清氏の考え方だったが、長谷川氏は「社長たるもの従業員に対して、どのような会社にしていきたいかその意思をしっかりと伝えなければいけない」と思っていた。だからこそ自身が社長になった際には、「管清工業を300年続く会社にしたい」という強いメッセージを伝えた。

 長谷川氏が社長、父・清氏が会長の時代、役員たちが社長派か会長派で分かれている時期もあった。家ではつい仕事の話で喧嘩になり、母親に諫められたこともしばしば。そんな中、ある時家に帰ると母親から「お父さんからあなたがすごく頑張っていると聞いたよ」と言われ、知らず知らずのうちに自分が父から認められているのだと気が付いた。その後、父から直接「社長らしくなったな」という言葉ももらった。

長谷川健司氏㊧と父・清氏

 社長を引き継ぐ時にも具体的に経営のイロハを教えてもらったわけではない。しかし、長谷川一族の中で物事の大根底にあるのは、お坊さんだった祖父からの「自分だけいいと思うな。会社を大きくしたかったら、市場を大きくしなさい。10%のシェアを持っていたとして、100の10%は10だけど、1000の10%は100になる」という言葉である。

 戦後、米軍からの配給品を皆に分け与えるような祖父だった。そういった教えが祖父から父へ、父から長谷川氏へと受け継がれた。

 長谷川氏は今も「ライバルは父」「お父さんは大嫌い」と言う。しかし、あらためて嫌いなのか問うと、答えはもちろんNO。自分のだめなところを含めて、一番の理解者は父だった。

 晩年、父・清氏が入院している時、お見舞いから帰ろうとするたびに握手を求められた。その時に父がポロっと「お前の手が一番いいな。悔しいけど・・・」と言った。それを聞いた時に、父との別れを覚悟した。それから2週間後に父・清氏は息を引き取った。

 ◇

 創業者で長谷川氏の祖父でもある正氏。「父親は単身赴任でいないことも多く、おじいちゃんっ子だった。おじいちゃんはいろいろなことを教えてくれたし、悪いことをするとよく怒られていた。おじいちゃんと一緒に寝るくらい、とにかくおじいちゃんが好きだった」と話す。

 実は祖父・正氏は突然の不幸な事件に巻き込まれ、長谷川氏が12歳の時に亡くなっている。昭和39年8月10日、自宅敷地内にあった事務所にお金を無心しに入ってきた泥棒ともみ合いになって、刺されたのである。あまりにも不幸な出来事だった。

 最後に祖父と一緒にいたのが長谷川氏だった。祖父は懐中電灯の電池を探すために、長谷川氏と一緒に事務所に行った。電池を見つけた長谷川氏が先に家に帰った後、事務所の明かりを見つけた男が事務所に押し入ったのである。通報は長谷川氏がした。その時は父親が単身赴任中で、家にいたのは母親と当時14歳の姉と7歳の弟と12歳の長谷川氏。幼い子どもにはあまりに怖い思い出となり、弟はそれから毎晩、恐怖で震えていたという。犯人が数日後に自首したのは唯一の救いだった。

創業時からの先輩である篠原廣明氏㊧と長谷川家3代に仕えた鈴木敦雄氏(管清工業株式会社60年史より)

 2022年に60周年を迎えた管清工業。社史の中に掲載されているとある写真の背景に使われている階段は祖父が亡くなった場所なのだという。社史製作の過程で、長谷川氏はとにかくそこで写真を撮ることにこだわった。階段を壊す前にその場所を写真に残したかったからだ。長谷川氏は言う。「俺からすると、あの写真の後ろにじいちゃんがいるんだよ」と。

 いきなり訪れた祖父との別れで、長谷川氏の人生観は大きく変わった。「人が死ぬということは、巡り合わせ。つまりこの巡り合わせがない限りは死なない。その時がいつ来るかはわからない。けれども、その時が来るまでは人は簡単には死なない」と。

 そんな長谷川氏が今、祖父と父に伝えたいことは、「俺、三代目としてちゃんとやったよ!」の一言だという。

 (後篇に続く)


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Profile

1962年(昭和37年)管清工業株式会社は誕生しました。

以来、約60年にわたり、一貫して「管」(パイプ)の維持・管理を行い、日本の下水道インフラを支えてまいりました。

下水道の管路網を専門的に管理、清掃することが当社の社名=管清工業の由来となっています。まさに「名は体を表わす」という言葉を自負しています。

創業以来、ずっと変わることのない思いは、「市場は自分で作り同業他社と共に開拓していく」こと―――。社員は1から2を生むのではなく、0(ゼロ)から1を生むことに力を注いでいます。創造し、多様なインフラの価値を創り出してきたのです。

下水道は今や、この現代社会では欠かせない存在となりました。例えば、震災時にトイレが使えなくなると途端に不自由な生活を強いられます。また、下水はウイルス発生の予兆を知る事が出来ると言われています。現代に生きる我々には、もはや当たり前の存在とし、流れを止めることの出来ない重要なインフラと位置づけられているのです。

さらに、私たちはこの下水道を通じ環境教育の一環として、全国の学校に訪問し下水道の「出前授業」を通した啓発活動を行っています。子供たちに、美しい環境を残していくことが我々の大きな役割だと考えています。そして、その使命を胸に、日本全国でより良い生活環境を創出するために、管清工業株式会社は24時間365日稼働し、常に社会基盤を支えているのです。

美しい地球のために―――我々と一緒に、未来の地球環境を創り上げていきませんか。